徒然とエモーション

ブログって誰に向けて書くものなんでしょうね?と思いながら音楽とか本とかについて、自分でもよくわかっていない誰かに向けて書くブログです。

小沢健二「So kakkoii 宇宙」を聴いた、2019年の私。

小沢健二のニューアルバム「So kakkoii 宇宙」を聴いた。

歌詞の切れ味は相変わらずで、まずはそれが嬉しい。

その分伝えたいことが多いのか狙っているのか、言葉の多さにメロディーが追いついていないような感じを受けたし、ずっと聴いていると少し疲れてしまうけれど、小沢健二ここにあり、というアルバムだなというのが第一印象だった。

宇宙だの愛だのと歌っているけれど、基本的には90年代の小沢健二の楽曲たちと並べてもそう違和感は感じない。むしろ懐かしいような気さえしてしまう。

でもじゃあ、単に「LIFE」やそれ以降のシングルの続編という感じなのか?と言われると個人的にはちょっと違和感がある。続編というよりは歳(や経験)を重ねた「LIFE」って感じがする。

 

はじめに断っておくと、この後の文章は「So kakkoii 宇宙」の感想とは言えないものになってしまった。

感想というより、このアルバムを聴いて思い出した一連の自分語りになっている。

なので、関心ねーよという方は読まなくていいです。

 

 

私はリアルに小沢健二を聴いてきた世代ど真ん中である。

小沢健二のセカンドアルバム「LIFE」は、回数で言えば5本の指に入るくらい聴いた。

世間的にも名盤と言われることが多いけれど、私にとっても大切な思い出深い大好きなアルバムのひとつだ。  

いつだって「LIFE」を聴くと、中高生の頃の思い出や空気感が蘇ってくる。

LIFE

LIFE

 

 

1990年代

小学校高学年~中学生の時に、ちょっとオシャレな同級生のお姉さん世代が熱中していたのがフリッパーズ・ギターで、歌謡曲しか知らなかった田舎の子であった私にとってその音楽はちょっとした衝撃だった。彼らのちょっと世間を斜めに見たような発言やファッションも含めて憧れの存在であった。

 

その後フリッパーズ・ギターは解散して、小山田はコーネリアスとなり小沢もソロ活動を始めた。私はフリッパーズ・ギターを教えてくれた幼馴染とともに小沢健二の音楽に熱中していった。

アルバムやシングルがリリースされるたびに「天使たちのシーン」の名曲ぶりや、「今夜はブギー・バック」と「愛し愛されて生きるのさ」がいかに素晴らしくカッコいいか、幼馴染と飽きずに話していたことを覚えている。 

 

 その後小沢健二フリッパーズ・ギターの頃の厭世的な感じが夢であったかのように音楽番組で王子様としてもてはやされ、「ラブリー」では紅白出場を果たした。

 

それから数年間すごい勢いでシングルをリリースし、それなのにそれらのシングルはアルバム「球体の奏でる音楽」には収録されず、気が付いたらある日ぱったりと表舞台から姿を消してしまった。

 

2003年

のちにリリースされた「刹那」という後期のシングルをまとめたアルバムがある。

左へカーブを曲がると光海が見えてくる

僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも

南風を待ってる 旅立つ日をずっと待ってる
“オッケーよ”なんて強がりばかりをみんな言いながら
本当は分かってる 2度と戻らない美しい日にいると
そして静かに心は離れてゆくと

これはこのアルバムに収録されている「さよならなんて云えないよ」という曲の歌詞。とても好きな曲で、美しい歌詞の曲。 

さよならなんて云えないよ

さよならなんて云えないよ

  • provided courtesy of iTunes

 シングルとしてリリースされたときは何も考えていなかったけれど、「刹那」というタイトルのアルバムに収録されたこの曲を改めて聴いたとき、小沢健二は時代の真ん中で歌い踊ってそして向こう側へ行ってしまったんだなあと思った。“2度と戻らない美しい日”という言葉はまさにその通りになってしまったのだと。

それから私にとって小沢健二は少しずつ過去の人となっていった。

 

2010年

それが突如として破られたのは2010年に開催された小沢健二 コンサートツアー二零一零年 五月六月 ひふみよ」のツアーだった。まさかの展開である。

当たるはずないと思って応募したチケットに幸運にも当選し、札幌市民会館で行われたライブに一番後ろの席ではあったけれど行くことができた。

情報を一切シャットダウンして行ったので、小沢健二がどのように登場しどのような歌を歌うのか不安に思っていた。

ライブを観たいという気持ちの一方で、もし新曲ばかりの当時の面影もないような実験的な曲ばかり聞かされたらどうしよう、あのキラキラした思い出を否定されたくないという気持ちが駆け巡っていた。

でも違った。

知りうる限りほとんどのヒット曲を歌ったと記憶している。

二度と歌われることはないのではないかと思っていた「カローラⅡにのって」や、「刹那」に収録されずとても残念だと思っていた「戦場のボーイズ・ライフ」や「ある光」も歌ってくれた。

美しいものが今またここに蘇ってきた、という感覚があったライブだった。

 

そして時は2020年

 そして2019年にリリースされた「So kakkoii 宇宙」

リード曲「彗星」小沢健二はこう歌う。

今ここにある この暮らしこそが

宇宙だよと

今も僕は思うよ なんて奇跡なんだと

 

今遠くにいるあのひとを 時に思い出すよ
笑い声と音楽の青春の日々を
再生する森 満ちる月 続いてゆく街の
空を横切る彗星のように

あふれる愛 止まらない泉
はるか遠い昔 湧き出した美しさは ここに

  

彗星

彗星

  • provided courtesy of iTunes

 

 「さよならなんて云えないよ」では美しい瞬間が過ぎ去っていくことへの寂しさや諦めを歌っていた。

アルバム「LIFE」も時代への讃歌のような若さゆえの煌めきのようなものが封じ込められている作品だったと思う。

 

でも「彗星」では“暮らし”こそが“宇宙”であり“奇跡”だと歌っている。

美しさはある一瞬で過ぎ去るだけではなく、過去の思い出も彗星のように時を超えて今に続いているという確かな希望を歌っているように感じる。

そこが、「So kakkoii 宇宙」が「LIFE」期の小沢健二と違う視点かなと思う。

いや、違うというよりも、これらは地続きであってそういう風に“変化”したという方が正しいのかもしれない。

 

So kakkoii 宇宙

So kakkoii 宇宙

 

  

はじめに「So kakkoii 宇宙」は歳を重ねたLIFEという感じがすると書いた。

なんとなくこのアルバムの曲を聴いていると、歳を重ねることも悪くないよなっていう気持ちになれる。「LIFE」ほど情熱を傾けて聴くことはないけれど、でもやっぱり小沢健二の作る楽曲には今も心を惹かれ続けている。

これらの思いは昔の小沢健二をリアルに聴いてきたから感じるもののように思うし、今オザケンの全盛期をまったく知らない世代が聴いたらどのように感じるのだろう。

彼らにとってはあまり歌の上手くないオジサン、ってくらいの感じかな。それはそれで面白いけれど。

 

 

個人的ベストは「薫る(労働と学業)」